DMCラボ・セレクション 〜次を考える一冊〜
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ピケティ読んだけど質問ある?『21世紀の資本』

Book reviewer: 京井 良彦 / Yoshihiko Kyoi

「私たちは99%だ!」
2011年、米国の若者たちによるウォール街を占拠しようという抗議活動がありました。
今や米国ではトップ1%の富裕層が国民所得の20%を占めるといわれます。
この現状に不満を持った若者たちが、ついに声を上げたというわけです。

このように大きく顕在化してきた格差問題を、新しい視点で解明した文献が話題です。
ご存じ、ピケティの「21世紀の資本」。今回はこの本を取り上げましょう。

Q1:ピケティって何が言いたいわけ?


>>1
本書は700ページにもわたる大長編ですが、主張は明快です。
それは、「資本主義という仕組みそのものが、所得分配の格差を拡大させるものである」というもの。
つまり、富める者はますます豊かになり、そうでない者とは格差が開くばかりだというわけです。

では、なぜ格差が広がっていくのでしょう?
そのメカニズムを説明するのが、不等式「r(資本収益率)>g(経済成長率)」です。
資本収益率とは、株や不動産などの資本から生み出される収益率で、18世紀以降、4〜5%の水準で推移してきました。
一方、経済成長率とは、国民所得の伸びを示すものですが、こちらは長期的には1〜2%程度というものです。
確かにこの不等式は成立しますね。

しかしそれがなぜなのかというと、ピケティ本人も理論的には分らないといいます。
これまでの経済学者は、難しい数式を扱って理論を構築することを得意としてきました。
なので、ピケティの主張にも反論が殺到しています。
「rが高いのは資本家のリスクプレミアムじゃないか」「資本の中に人的資本が含まれていないじゃないか」などなど。

しかし、ピケティのアプローチは理論構築ではなく、データ解析です。
理論は分からないが、世界20カ国のデータを100年分収集し、解析した結果がこうなっているという主張であって、逆にそこに説得力があります。

Q2:格差の原因と対策は?


>>2
面白いのは、本書には文学からの教訓が多く引用されているところです。
たとえば、バルザックの古典「ゴリオ爺さん」。
法律を学ぶ青年ラスティニャックが、年収1200フランを稼ぐ判事になるのか、資産家の娘と結婚して100万フランの富を得るのかの選択を迫られるなど、富と資本の構造が浮き彫りになっている小説です。

おそらくピケティは、経済学というものが机上の空論ではなく、きちんと社会生活と結びついていることを示したかったのだと思います。そして、「人が生まれた時からすでに格差があるなんておかしい」と、社会に警鐘を鳴らしたのです。

ピケティの考える格差の原因は、教育の問題、テクノロジーの台頭、超大企業の誕生で生まれたスーパー経営者、相続の蓄積などなど、各国ごとの事情もあって複雑です。

そんな格差の是正に向けた提言はシンプルです。それは、国際社会で協調し、資本に対して累進税を課すべきというものです。
現実的には難しい話ですが、格差問題を「世界中の人々みんなで解決していくべき」というメッセージ自体に大きな意味があるのでしょう。


Q3:ピケティ読んでどう思った?


>>3
僕自身は、投資銀行や広告会社で働いてきたわけで、労働者サイドでありながらも基本的には資本主義、つまり市場の機能を信じています。
これがあるから、民主主義が成り立ち、人々の「成長を追求する」モチベーションが継続するのだと考えています。

ただし、経済理論とは違う視点として、僕の著作「つなげる広告」では、経済成長だけが人の幸せでないことを主張しています。
たとえば、大きな交通事故があったとします。
多くの人を不幸に陥れる惨事ですが、救助作業や道路清掃などの特需によって、GDPは加算されていきます。

つまり、人の幸せはお金では測れないということです。
資本主義による格差拡大は、ピケティによって解明されつつあるのでしょうが、それと人のハピネスはイコールではないということです。

今世界的に、ハピネスの概念は、物質的な豊かさだけでなく、文化や精神、公正さ、環境の維持などの価値観へ転換しつつあります。
もちろん、格差是正に向けてみんなで取り組んでいくべきですが、僕自身はお金の格差よりもっと大事な価値観を見いだす時代が来ているのだと考えています。


Posted: 2015年2月25日 09:10 | コメント(0)

今回はインフォバーンCo-CEOの小林弘人氏と日経ビジネス・チーフ企画プロデューサーの柳瀬博一氏のふたりの編集者による「インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃったわけ」をご紹介します。

■何についての本なのか?

とても気になるタイトルの本書、いったい何についての本なのでしょうか? 本書はおふたりの対談形式でつづられており、話題はインターネット論、メディア論、マーケティング論、組織論、営業論、採用論、果てはスポーツ選手論、アイドル論、場末のスナック論まで境界線なく縦横無尽に行き来します。

本書の中でふれられている書籍の一部をあげると...
「フリー」(クリス・アンダーソン/NHK出版)
「シェア」(レイチェル・ボッツマン、ルー・ロジャース/NHK出版)
「パブリック」(ジェフ・ジャービス/NHK出版)
「MAKERS」(クリス・アンダーソン/NHK出版)
「ウェブはグループで進化する」(ポール・アダムス/日経BP社)
「友達の数は何人?」(ロビン・ダンパー/インターシフト)
「予想どおりに不合理」(ダン・アリエリー/早川書房)
「グロースハッカー」(ライアン・ホリデイ/日経BP社)
「リーン・スタートアップ」(エリック・リース/日経BP社)
「ゼロ・トゥ・ワン」(ピーター・ティール、ブレイク・マスターズ/NHK出版)
「年収は『住むところ』で決まる」(エンリコ・モレッティ/プレジデント社)
「グレイトフル・デッドにマーケティングを学ぶ」(デイヴィッド・ミーアマン・スコット、ブライアン・ハリガン/日経BP社)
などがあります。
果ては、星新一や筒井康隆のショートショートまで取り上げられており、その話題の幅広さがご理解いただけるかと思います。こちらの書評企画で取り上げたものもいくつかありますね。

本書は、これらの書籍を既に読まれた方であれば、それらの間のつながりを理解するための助けとなるでしょうし、読まれていない方も、本書を話題のハブとして、気になったテーマを深掘りしていく、という活用もできるかと思います。

本書が「結局、何についての本なのか?」に関して、あとがきではこのように書かれています。


誤解を恐れずに言えば、本書は、"編集者入門"だとわたしは思う。本書は、目の前を過ぎる事象から時代の「核」を掬い、近未来を語る二人の編集者による編集談義なのだ。
(中略)
二人の編集者は、"編集力"があらゆる分野のブレークスルーに貢献できると予感した。映画『スターウォーズ』でヨーダがいうところの「フォース」である。汝、編集力と共にあらんことを。(P.283)


文字通り、二人の編集者による対談形式の編集談義である本書は、二人の編集会議で行われているブレストを傍らで聞いているかのような感覚になります。刺激的でヒントに満ち満ちているのですが、一方で「これだ!」という結論めいたものはありません。しかし、それにも理由があるのです。本書では繰り返し、環境変化のスピードがとても速くなっていることにふれています。

ここのところウェブ上では「インフラ=プラットフォーム」の寿命のほうが「コンテンツ」の寿命より明らかに短い、というケースが増えている。ハードウェアを含めたテクノロジーの進化がすさまじくて、コンテンツが乗っかるプラットフォーム--具体的にはハードも流通システムも含めて--のほうが先に衰退しちゃったりする。一時、ウェブビジネスは、プラットフォームを押さえれば、お金がちゃりんちゃりん落ちてきて勝ち!なんて話もあったけど、もう違う。(P.55-56)


今はあらゆる情報の行き来が脳の思考速度に近づきつつあると思っている。
(中略)
少なくとも情報産業の変化の度合いは、脳の思考速度に限りなく近づいている。スマホのビジネスを見ていて、そう思うね。だからきっとこれからも、勝者というのはそんなに長くは生き残れないと思う。(中略)そこで「5カ年計画を出せ」とかはあり得ない。(P.206)




「予見すること」自体が間違っていると思う。
(中略)
これはフェイスブックのシェリル・サンドバーグも言っていたらしいけれど--「3カ月置きで軌道修正していく」のね。
(中略)
善し悪しはともかく、いま会社の戦略自体が5カ年なんて保てないからね。長編小説の時代は終わっている。散文から詩により近くなっていると思う。(P189-190)


そのようなスピード感の中で「目の前を過ぎる事象から時代の『核』を掬い、近未来を語る」ためには事象を無理矢理に型にはめ、切り取った「点」にして分かったつもりになるのではなく、世の中の流れから掬いあげたたくさんの「点」と「点」を編集力によってつなぎ合わせ続け、未来に向けた「線」として描き続けなくてはならないのではないでしょうか。その試みが本書であると感じました。

■「インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃったわけ」とは?

よもやま話的ともいえる本書、ゆえに非常に要約しづらいのですが、タイトルにもなっていて、本書の端々でも言及される概念である「インターネットが普及したら、ぼくたちが原始人に戻っちゃった」とはいったいどういうことなのか、についてふれさせていただきます。

わたしは、2つの視点があると感じました。

① わたしたちは原始人と変わらなかった

ひとつ目は「結局わたしたちは原始人と変わらなかった」ということ。それこそ「オープン・フラット・ネットワークなインターネット時代が来ることで、我々は新人類となるのだ!」という勢いで理想の近未来がここ数年の間、語られてきましたが、実際にSNSなどが普及してみると、文化や社会や人々のマインドといったソフトウエアの部分はさておき、人間の脳機能や身体機能といったハードウエアは原始時代となんら変わらない、という当たり前のことにぼつぼつ皆が気が付きだした、ということです。
人間の脳が把握できるのが150人程度の規模で、原始時代にも村落がこのサイズを越えると2つに分裂していたそうですが、SNS時代のコミュニティーも数字の上ではたくさんの人とつながっていても、結局機能してちゃんとした交流を持てるのはその中の一部(なんとなく、150人程度だったりしませんか?)というのは皆さんも実感されているのではないでしょうか。 このことはビッグデータなどの「サイエンス」を活用できるようになっても、人間の本能に働きかけ、気持ちを動かし、行動を起こさせるためには「アート」は変わらず重要であり続ける、ということでもあります。

② わたしたちは原始人にならなくてはならない

ふたつ目は「わたしたちは知的で野蛮な新時代の原始人(本書では「スマホを持った原始人」あるいは「ハイテク・バーバリアン」と呼ばれています)にならねばならない」ということ。いままでは大きな組織をつくり分業することが効率化に繋がっていたのですが、環境が大きく変化したことで、大きさゆえのスピード感のなさなどが不利になる状況が出てきました。そこをブレークスルーするためには、型にはまらないワイルドな知性で「20世紀型フレームワーク」を破壊する蛮勇が求められている、ということです。
本書で紹介されているエピソードに「大企業が大々的に新製品の発売を発表したが、実はそれ以前からクラウドファンディングサイト上で同じような構想を発表していた数人の若者がいて、彼らはたった数カ月で資金を集め、ラピッド・プロトタイピングを活用しながら開発・発表をスピーディに繰り返すことで、機能面でも大企業のものを上回り、多くの先行予約を獲得してしまった」というものがあります。まさしく20世紀型文明人が21世紀型原始人の旧来のやり方に囚われない新しい戦い方にしてやられてしまった例、といえるでしょう。

わたしは(「自分は既に21世紀型原始人である」という方もいらっしゃるでしょうから、あえて「わたし」とさせていただきます)20世紀型文明人として滅ぼされてしまうのではなく、うまく21世紀型原始人に進化することができるのでしょうか?個人的には本書の以下の箇所に希望を見いだすことができました。


今まで分業で済んでいたものが、もう「全部を見られない」とダメ。
(中略)
「スペシャリストとしての得意技」を1つか2つ持っていながら、「営業」や「プロデューサー」や「広告屋」的な能力も持ってないと仕事にならない(P.111-112)


みなさんそれぞれ立場や状況、思いは異なるとは思いますが、わたしと同じように「自分はまだ20世紀型文明人かもしれない...」と感じられた方は、21世紀型原始人となるための何らかのヒントを、ぜひ本書で見つけていただければと思います。


Posted: 2015年2月12日 16:54 | コメント(0)